べて知っていた。
ナギサは朝から曇りでどぶねずみ色の空の下にいたデンジもまた曇った表情を貼り付けていた。浜辺のほうから歩いてきた彼を見つけた私はナンパでもするかのように彼に馴れ馴れしく絡みつき、結果ナンパでもされたかのようにジムに連れて行かれた。暇を持て余していた私に甘ったるいコーヒーを突き出し(いい加減角砂糖三つも四つも入れるのやめて欲しい)彼は「俺も今日は暇なんだ」とおもむろに言って適当に笑った。
ずっと、お天道様がそこにいるのかいないのか分からなかった。そんな一日だった。私はジムの「関係者以外立ち入り禁止」と派手な字で書かれたドアの内側にひきこもり、その間デンジはそことバトルフィールドを工具やら配線やらを持って行ったり来たりしていた。私は適当に照明を落として部屋を快適な明るさにした後で(電気屋みたいにキンキンしていると吐き気がする)寝転がってコリンクをいじり、積上げられたむさ苦しい青春漫画を読み漁り、音漏れが激しいイヤホンでやかましい音楽を聴き、コーヒーを3杯お代わりして、角砂糖を十二個消費した。
時計の長い針が11を指したとき私は手に持っていたポルノ雑誌を勢いよく閉じて言った。「駄目だ、こりゃ」デンジは一時間ほど隣にいてメリープの毛づくろいに何かにとり憑かれたかのように没頭していた。周りに散乱した毛はデンジの人間臭い何かを代弁していたような気がした。「早く進化させてえんだよ」と言ったそいつの顔には海とか空とかそういう類の快さを備えた笑みが貼り付いていた。こいつが笑ってると苛々する様になったのはあの頃からか。
「でんじろう、私帰るわ」
「ああ」
彼の眼が一瞬私を捉えた。ベッドの下から引き出され今は私の手が掴んでいるポルノ雑誌については一言も弁解がなかった為、捉えたように見えただけかも知れない。往生際の悪い私はそんな彼を精一杯睨み付けた(あくまでも好戦的に)。
「、その前に」私の最後の悪あがき。
「目を閉じて、三秒数えて」
デンジは疑いもせずに目を閉じた。伏せられた睫毛が綺麗だった。こういうところにこいつの甘さとか正直さとかが出てるよな、と思った。そんなことをぼんやり頭の片隅において、私は彼にキスした。ひっぱたこうかとも思っていたけれど、いざとなると馬鹿な私はそんなかっこいい去り方ができないことに気がついたのだ。とっさに派手な上着の上から肩を掴む。それは一瞬びくりと動いた。そのまま、いち、にい、さん。
「…って!」
瞼を上げたデンジが十センチぐらいのところにいる私の両の瞳を睨む。
「いきなり噛むやつがどこにいる」
「キスだよ」
「噛んだじゃねえか、舌」
軽く口付けたはずの私を受け入れたデンジが悪い。いつもそう、こいつはなまじ優男なばかりに私はつかの間の妄想に取り付かれ気力と時間を無駄にしてしまう。
時間が経てば経つほど自分が何をやらかしたか自覚してくる訳で、私は掴んでいた肩を精一杯突き放すと立ち上がって走り出した。部屋の中に跳ね返る自分の足音をきくたびに、安い予算で作られた昼のメロドラマを思い出した。人は時として実際にこういうことをするから困る。
「世界を敵に回しても、あの子だけは護りぬけ!」「ふらふらすんな!おとこだろう」と、素直に口でいえたらどれだけ良かっただろう。あんな方法でしか彼と繋がれなくて、しかも強烈な印象を与えられたと思っている自分を逆にひっぱたきたい。だって、舌が、唇が、足が、脳みそが痺れているのは私の方なのだ。
(この賭けにでたら二度と彼の前に戻ってこないと誓ったこの身をジムの前から動かせない。寒気がした。足音はきこえてこなかった。)