彼は泣いていた。涙こそ見えていないけれど、私には分かる。


この冷えた部屋から見える今の景色を、誰が銀世界って呼んだのだろう。私の目に映るのはひたすらな白で、そこからそれを銀と呼ばせる何かを見出そうとしても、目の裏に白の残像が焼きついただけで―そんなことを考えていた時、まわりの空気が震えたような気がして、私は後ろを振り向いた。その時彼はまだ眠っていたけれど、彼の発する気の振動みたいなものが、大雨に打たれる草花のように細かく震えていた。青色が好きな彼だけれど―今朝はあなた自身が、外の白さに蒼さを透かしたような顔をしていることに気付いているのですか?この色を身に着けるのは戒めの一種かもしれないといつか言っていた。イマシメ?そんな固い言葉であなたは自身を縛っている―
そして私は必死に彼の影を探した。なんでそんなことをするのか自分でもよく分からなかった。昔、影を盗まれる女の人の話を呼んだことがあるからかもしれない。24時間以内にそれを取り戻さないと死んでしまうと彼女は言っていた。だから、例の雪原の照り返しで彼の下に黒いみずたまりみたいなものができているのを見て私は心底安堵した。それから彼の上を滑る光が、不安定に寝息をたてるその横顔にある一筋の跡を捉えていた。


その冬の朝、ゲンさんは目覚めてこう言った。
「かなしいゆめをみていたんだ」
一音一音違う人間が言っているように、音節の羅列が偶然言葉になってしまったかのように彼は発音してぎこちなく微笑んだ。まるで、いままで一度も表情を変えた事の無いヒトが、笑うときは口角を上げて目を少し細めてね、という指示に言葉通り従ったかのような感じだ。後ろから白く冷たい光が起き抜けで少し髪の毛が乱れた彼を包んでいた。雪が、彼を空へ昇華させようとしているみたいに。
「…?」
彼をこの部屋に引き止める術をとっさに思いつけなくて、それは本能なのかもしれないけれど、咄嗟に私は彼にしがみついた。頬の跡を指で辿る。
「私が昨日一人で馬鹿みたいに拗ねてたから?それでこの部屋に悪い気を呼んじゃったとか…?なんであなたが悲しい夢をみなくちゃいけなかったの?なんでそんなに消え入りそうな顔で笑うの?ねえ、やっぱり雨は涙の粒なのかな、だから積もった雪も…それなのに私」
「君はすこしの特別を望んだだけだよ、物理的に」
「私の特別が叶えられて、ゲンさんが泣きながら目覚めるの?…かみさまってそう意地悪なの?」
「神様なんていない」
突然強い調子になった彼の眼はますます蒼く透き通る。


「いいかい、僕が見た夢はこんなのだった。―僕は中世にタイムスリップしている。僕は何も知らないのに、周りの人間が僕を誰かと間違えていて、僕は何世紀かに一度の戦いを止める役を買って出たことになっている。こう言ったら聞こえがいいけれど平たく言えば人身御供だ。僕はすがる恋人―君にそっくりの、ね―をおいて、戦いを止めにいくんだ。ひたすら泣きながら走っていた。大義名分とか殉死とか、やがて報われるだろうとかいう奇麗事は所詮慰めに過ぎない。神様も。本当にそこにあるのは、痛みだけ」


なんてことを言うの、と言いかけて口をつぐむ。今の彼は海辺に立つ白いドレスの女の子とかと同じぐらい儚くて、対照的な彼の突き刺さる饒舌が重かった。
「…ごめんな、すこし気が立ってたみたいだ」
あやまらないでください、と小さく呟いて、彼の口を軽く塞ぐ。顔の上の震える私の手に落ちている彼の眼の染み透る蒼を見ていた。私の目にも涙が浮かんで、ああこのひとは私よりずっとずうっとおとななんだなあ、と思った。私では抱擁しきれないこのひとの追憶の悲しみは一体どこから湧いてくるんだろう。今までもそばにいて感じていた―――
「けれど、」と言いかけて喉がぐっと詰まっていることに気がついた。苦しくて更に視界がぼおっとする。私の消化不良の言葉がおなかをぐるぐるまわる。
(―――たとえ悲しみの具現に囲まれても、その華奢な空気を纏ったあなたが私の隣に居る限り朝になれば私は眼を開くのでしょう。)



痛みを包括したなにかを探しているのです
めざめ